マサカズ雑記帳

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鳥羽伏見の戦いの後で旧幕府は挽回できたか?

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 幕末動乱の大きな山場となる鳥羽伏見の戦い
 慶応4年(1868年)1月に京の郊外で起きた旧幕府軍薩摩藩長州藩の連合軍の戦いは薩長軍が錦の御旗を上げた事で薩長軍は帝の敵を討つ官軍となりました。
 対して旧幕府軍は帝の敵である賊軍にされてしまいます。
 賊軍にされてしまい旧幕府側は江戸へ退却して江戸城無血開城へ至る江戸幕府の時代の終わりへ向かいます。
 果たして旧幕府側に挽回のチャンスはあったのでしょうか?
 
○何故旧幕府は負けたのか?


 鳥羽伏見の前の政変
 まずは旧幕府軍が何故負けたのか見ていきましょう。
 鳥羽伏見の戦いが起きる前に政変が起きました。
 第15代将軍の徳川慶喜が政権を朝廷に返す大政奉還を行い、王政復古の大号令により薩長中心の新政府が樹立します。
 こうして日本の政権が徳川から朝廷と新政府に移りましす。
 政治は朝廷の公家も加わりますが薩長などの倒幕派が主でした。
 倒幕派は徳川家から政権を取り上げたものの、軍事力や政治力など実力は徳川家や旧幕府には残されていました。
 そこで薩長の新政府は慶喜の朝廷の官位である内大臣と領地を没収すると決めます。
 この没収に旧幕府側の不満が高まり、江戸で薩摩藩士が起こす強盗や放火の挑発も起こって旧幕府は京にある薩長を追い払う軍事行動を起こします。
 それが鳥羽伏見の戦いになるのです。
 
 負けた旧幕府
 鳥羽伏見の戦いの詳細は省きます。
 鳥羽伏見の戦いで旧幕府が何故負けたのか紐解きます。
 ・指揮官の問題
 鳥羽伏見での旧幕府軍薩長軍の違いは何か?
 武器では旧幕府軍に加わる会津藩大垣藩には槍を装備した部隊もありましたが旧幕府の陸軍は外国から買ったマスケット銃を装備していて薩摩や長州の軍には劣らない洋式装備と訓練を受けていました。
 数も薩長が4000人に対して旧幕府が1万人と大差があります。旧幕府が槍装備の隊があっても6000人の旧幕府陸軍が主力なので数で勝ります。
 では何が旧幕府軍で負けていたのか?
 それは部隊を指揮する指揮官にあります。
 鳥羽伏見で戦った旧幕府軍を指揮していたのは大目付の滝川具挙でした。本来なら陸軍奉行の竹中重固が指揮を執るのですが何故か伏見に居ました。
 この指揮系統の乱れは最後まで続いてしまいます。
 指揮官がはっきりと指揮しない為に初動のミスが起こります。
 薩摩軍と旧幕府軍接触した時に薩摩軍は旧幕府軍を京へ入れない為もあって横列に並んでいました。
 対して旧幕府軍は戦闘が始まるまで縦列に並んだままでした。
 これは横列は幅広く射撃を浴びせる事ができて縦の列は先頭しか戦えない為に違いがあります。
 指揮官が居るのか分からないままでは状況の変化に対応できなかったのです。
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大坂城内で整列する幕府陸軍将兵

 周到な工作
 新政府側は鳥羽伏見の戦いの前に京の周辺にある藩へ工作をしかけます。
 その工作は旧幕府軍が淀藩の淀城に入城しようとするのを阻み津藩が橋本に陣取る旧幕府軍を攻撃する事で現れました。
 薩長軍が官軍の証である錦の御旗を出した事で成り行きを見守る藩を動かしたのも確かです。また津藩に朝廷から勅使(使者)が来て新政府側へ帰順するように迫る工作もしていました。
 戦場での戦い以外にも薩長側は謀略で勝っていました。
 
○旧幕府に挽回はできたか?


 鳥羽伏見で負けた旧幕府軍大坂城へ戻ります。
 慶喜会津藩桑名藩の藩主などを連れて江戸へ先に帰ってしまい旧幕府軍は戦い続けられず旧幕府の負けで鳥羽伏見の戦いは終わります。
 慶喜が諦めた事で終わった鳥羽伏見の戦いの後で挽回はできたのでしょうか?
 
 大坂城に立て籠もる
 鳥羽伏見の戦いに敗れた旧幕府軍は出陣した大坂城へ戻ります。
 大坂城豊臣秀吉によって築城された大規模な城郭です。
 豊臣家と徳川家の戦いである大坂の陣の後で大阪城は豊臣家の名残を消すように石垣や天守閣が作り変えられましたが堅固な城である事に変わりはありません。
 大坂城には奥詰銃隊や散兵隊など5000人の無傷の戦力が残っていました。
 大坂城に兵糧が十分にあれば籠城戦を戦えたでしょう。
 大阪湾には旧幕府海軍の開陽丸など軍艦があり海からの援護射撃も期待できるかもしれません。
 大阪湾の制海権旧幕府軍が握っていたら海から大坂城へ補給を届ける事もできます。
 しかし新政府軍が大坂城を囲んだまま江戸など他方へ向かった場合は大坂城での戦いは意味がなくなっていまいます。
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 慶喜に図太い意志があれば・・・
 史実では慶喜が戦いを諦めて江戸へ戻った為に大坂城での戦いは起きませんでした。
 挽回の戦いを起こす最大の原動力は慶喜が戦う意志を持つ事です。
 徳川家が賊軍の汚名を着ても後で汚名を晴らすと言う図太さが慶喜には求められます。
 史実では徳川家が朝廷や帝に敵対する朝敵にされるのを畏れて江戸に戻るや恭順の意志を示します。
 もしも慶喜が実力で賊軍や朝敵の汚名を取り払うと覚悟して大坂城の籠城戦を直接指揮すれば鳥羽伏見での指揮系統の乱れは無いでしょう。
慶喜が戦い続け、各地に「徳川は健在である」と示す事ができれば日和見の諸藩の動向も変わるかもしれません。
 
 時間は味方になる?
 戦う意志の強い慶喜が率いる旧幕府軍大坂城で籠城を続け長期戦になった場合
 大阪城を救援すべく江戸に残る旧幕府陸軍会津藩などの佐幕諸藩の軍が向かうと思われます。
 その江戸からの軍勢が京を囲むか占領した場合は朝廷が旧幕府軍の武力に屈して慶喜へ出した没収の件や朝敵にした件を取り消す事もできるでしょう。
 (ただし新政府軍に勝つ必要がある)
 長期戦になって旧幕府軍が上手く立ち回れば慶喜を掩護できる戦力になるでしょう。
 また薩長が友好関係を持つイギリスの公使パークスや徳川に嫁ぎ江戸に住み続ける篤姫和宮を通じて薩摩藩へ休戦に向けた交渉を展開する時間も作れるでしょう。
 
〇鳥羽伏見の挽回を果たした後は
 ここまで書いた展開で旧幕府軍鳥羽伏見の戦いの挽回できて薩長と休戦した場合は徳川家がある程度の実力を残したままになります。
 たとえ小御所会議のような政治の場に徳川が復帰しても倒し切れなかった旧幕府の勢力と薩長中心の勢力が政治や武力での争いを続ける事になると思います。
 慶喜指導力を発揮しても政治力と軍事力を持つ双方が睨み合ってはすぐに戦乱は再開するでしょう。
 戦乱を早く終えて新しい時代へ移ると言う意味では慶喜の諦めは正しかったのかもしれません。



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