鳥羽伏見の戦いの後で旧幕府は挽回できたか?
幕末動乱の大きな山場となる鳥羽伏見の戦い。
対して旧幕府軍は帝の敵である賊軍にされてしまいます。
果たして旧幕府側に挽回のチャンスはあったのでしょうか?
○何故旧幕府は負けたのか?
鳥羽伏見の前の政変
まずは旧幕府軍が何故負けたのか見ていきましょう。
鳥羽伏見の戦いが起きる前に政変が起きました。
こうして日本の政権が徳川から朝廷と新政府に移りましす。
倒幕派は徳川家から政権を取り上げたものの、軍事力や政治力など実力は徳川家や旧幕府には残されていました。
それが鳥羽伏見の戦いになるのです。
負けた旧幕府
鳥羽伏見の戦いの詳細は省きます。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府が何故負けたのか紐解きます。
・指揮官の問題
では何が旧幕府軍で負けていたのか?
それは部隊を指揮する指揮官にあります。
この指揮系統の乱れは最後まで続いてしまいます。
指揮官がはっきりと指揮しない為に初動のミスが起こります。
対して旧幕府軍は戦闘が始まるまで縦列に並んだままでした。
これは横列は幅広く射撃を浴びせる事ができて縦の列は先頭しか戦えない為に違いがあります。
指揮官が居るのか分からないままでは状況の変化に対応できなかったのです。
周到な工作
新政府側は鳥羽伏見の戦いの前に京の周辺にある藩へ工作をしかけます。
薩長軍が官軍の証である錦の御旗を出した事で成り行きを見守る藩を動かしたのも確かです。また津藩に朝廷から勅使(使者)が来て新政府側へ帰順するように迫る工作もしていました。
戦場での戦い以外にも薩長側は謀略で勝っていました。
○旧幕府に挽回はできたか?
大坂城に立て籠もる
大坂城には奥詰銃隊や散兵隊など5000人の無傷の戦力が残っていました。
大坂城に兵糧が十分にあれば籠城戦を戦えたでしょう。
大阪湾には旧幕府海軍の開陽丸など軍艦があり海からの援護射撃も期待できるかもしれません。
(徳川慶喜)
慶喜に図太い意志があれば・・・
挽回の戦いを起こす最大の原動力は慶喜が戦う意志を持つ事です。
徳川家が賊軍の汚名を着ても後で汚名を晴らすと言う図太さが慶喜には求められます。
史実では徳川家が朝廷や帝に敵対する朝敵にされるのを畏れて江戸に戻るや恭順の意志を示します。
時間は味方になる?
(ただし新政府軍に勝つ必要がある)
〇鳥羽伏見の挽回を果たした後は
たとえ小御所会議のような政治の場に徳川が復帰しても倒し切れなかった旧幕府の勢力と薩長中心の勢力が政治や武力での争いを続ける事になると思います。
戦乱を早く終えて新しい時代へ移ると言う意味では慶喜の諦めは正しかったのかもしれません。
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