【ネタバレあり】劇場版ヴィオレット・エヴァーガーデン感想
9月20日(日曜日)に109シネマズ広島で劇場版ヴァイオレッド・エヴァーガーデンを鑑賞しました。
感想や思った事なんかを書いて行きます。
ネタバレ前提で書きますので鑑賞後に読まれる事をお勧めします。
〇相変わらずのようで変化しているヴィオレット
映画の最初はライデンで行われる海の祭の場面から
軍艦の甲板で行われる式典で儀仗兵の前を通るヴィオレットとEvan Call氏の音楽が荘厳な場面で引き込まれる。
この時に描かれた軍艦が日本の戦艦三笠をモデルにしているなあと思えた。
式典後で市長から褒められるヴァイオレットだったが、かなり謙遜した答えをして市長を困惑させてしまう。
また、祭りの屋台巡りに誘われるヴィオレットだったが「仕事がたまっている」としてお断りして戻るヴィオレット
少しズレているいつものヴィオレット
しかし、そんなヴィオレットの心を弾ませる事が起きる。
かつての上官であるギルベルト少佐の母親の墓へ花をたむけに行った時に、ギルベルトの兄であるディートフリートと再会する。
再会のおかげでヴィオレットはギルベルトが子供の頃に愛用していた玩具や本を貰える事になる。その時の嬉しい微笑みをするヴィオレットが可愛いんですよ。まさに乙女と言う感じで。
(また同じ場面でギルベルトの物だと思った帽子がディートリヒの物だと分かると、あっさり手放すヴィオレットの反応が面白かった)
そのギルベルトが生きているようだと分かると、ヴィオレットは嬉しさを通り越してどう対面すべきか混乱する。
「気持ち悪くないでしょうか?」と今の自分をギルベルトに見せる事を不安がるヴィオレット
この場面がテレビ編から見ていると微笑ましく思える。
戦場帰りで不器用なヴィオレットが一般社会に馴染み、大仕事をも任され、令嬢に礼儀作法を教えるまでに成長する。
それは仕事人として、社会人ヴィオレットの成長だ。
ギルベルトとの再会が出来ると分かり感情の爆発に戸惑うヴィオレットは、心にも変化が起きている証だった。
以前のヴィオレットだったら素っ気なく「これは何でしょう?」と思うところだっただろう。
心の変化は作中でヴィオレットに与えられたテーマである「愛を知る」準備が出来た段階と言える。
〇ギルベルトの意固地さ
ギルベルトは遠くにあるエカルテ島で暮していると分かったホッジンズは、ヴィオレットを連れて会いに向かう。
しかし、ギルベルトは頑なに会わないと言う。
気持ちがおさまらないヴィオレットは雨に打たれながらもギルベルトへ会いたいと懇願するが、ギルベルトは拒む。
こんな娘っ子が泣きながら、雨に打たれながら求めているのにヒデーぞギルベルト!
ホッジンズが去り際へ投げつけた馬鹿野郎!の言葉はまさに気持ちを代弁してくれたと思えたね。
とはいえ、ギルベルトの視点からすると自分の兄が攫うように連れて来られ、戦わされたヴィオレットを自分の下から離して自由にさせたいと思っていた。
だが、ヴィオレットはまた自分の所へやって来た。
ヴィオレットをまた束縛してしまうのではないかと思ったのかもしれない。
戦場の記憶と異性との関係と言うと、漫画化された「戦場は女の顔をしていない」を思い出す。
戦場を思い出すからと、戦友以上に思っていた女性兵士と結婚しなかった下りだ。
この下りでは結婚後になってあの時の女性兵士と結婚しておけばと未練を言う男の身勝手も描かれていますが、自分の後悔や無念も混ざる戦場の記憶とセットになる異性との結婚は葛藤を含むものがあったりする。
ギルベルトに会えず無念のヴィオレットであったが、「少佐の気持ちが理解できるのです」とも理解を示すのもそうした感情を共有できるからだろう。
ここでヴァイオレットとギルベルトの心境を整理しよう。
ヴィオレットは自分を受け入れ、言葉を教え、贈り物をしてくれたギルベルトを慕っていた。
ギルベルトは会ってしまった事で後悔
ヴィオレットはギルベルトと会えない悲しみ
相反する気持ちがすれ違っている。
意固地なギルベルトにホッジンズとヴィオレットは一旦帰り出直す事にします。帰る前にヴィオレットは自分の気持ちを手紙にしてギルベルトへ送ります。
一方でギルベルトは兄のディートリヒと再会、ギルベルトへブーゲンビリア家の事は気にせず自由に生きて行けと言い、ヴィオレットと会うように促すディートヒリ
(ディートリヒ、今作ではかなりいい人になっていて驚く)
そこへヴィオレットの手紙が届きヴィオレットの慕う気持ちが分かり、ギルベルトはようやくヴィオレット向き合う事を決める。
もう船で帰る途上のヴィオレットの名前を呼びます。
それに船上で気づくヴィオレット
もはや出港した船の中である。間に合わない。
このまま後ろ髪を引かれる思いになるのかと思いきや、ヴィオレットは甲板を駆け出し、海へ飛び込む!
おお!いいぞ!いいぞ!と心の中で喝采を送る自分
エルカテ島に再上陸するヴィオレット、そこにはギルベルトの姿が。
ようやくの再会に泣きに泣くヴァイオレット、そんなヴィオレットを抱きしめ受け止めるギルベルト
おお!やったぞ!と心中で喜ぶ自分
ここのシーンは夕陽で美しく演出するものかと思ったら、日没後の夜の場面
遠浅で潮位が高い浜辺らしい所
ヴィオレットをギルベルトが受け止める時には月明かりが二人を照らすと言う幻想的な場面がこれまた良い。センスが良い!
〇サイドストーリーも魅力的
ヴァイオレットとギルベルトが結ばれる話がメインだが、サイドストーリーも展開する本作
デイジーは祖母から死後も母へ毎年届く手紙をヴィオレットが書いていた事を知り、ヴィオレットを調べる旅に出る。
もう一つは両親と弟に素直になれず、きつく当たってしまう病弱な少年ユリス
ユリスは自分の死後に家族へ自分の気持ちを伝える手紙をヴィオレットに頼みます。(この時の値段やり取りで「有事の際に裁量が認められています」と言うヴィオレットとユリスのやり取りが好き)
ユリスは家族への手紙を用意できましたが、もう一通用意して欲しいとお願いします。
しかしヴァイオレットはギルベルトに再開すべくエカルテ島へ向かい、残る一通は書けないままユリスは危篤状態を迎える。
このユリスのサイドストーリーは何を意味するか?
素直になれない事で手紙により真意を伝える事にしたユリスの心境と、限りある生きる時間かもしれない。
それはデイジーの場面にも言える事だ。
テレビ編を見ている方ならデイジーのストーリーは「おお!」となった筈だ。
祖母が死後に母親に出した手紙、それはテレビ編第10話のアン・マグノリアへの手紙だからだ。繋がっていますねえ。
ユリスの手紙、アンへの手紙
どれも死後になって届けられるメッセージだ。
おそらくこの二つの手紙の依頼はそんなに間が開かない時期にあったと思われる。限りある生きている時間と言う概念がヴィオレットに生まれたのではないだろうか?
それは劇中でヴィオレットがユリスへ言った「伝えたい事は出来る間に伝えた方が良いと思います」と言う台詞にも表れているように思う。
だからこそ、エカルテ島で暴走するような振る舞いをヴィオレットがしたとも考える。限られた時間で、簡単に行き来できない遠い地
また会えるか分からないからこそ、必死に走り回り、雨に打たれながら懇願したのだ。
ヴィオレットの必死さは彼女の心に積み重なった生死感にもあったのかもしれない。
このサイドストーリー、デイジーの話は年十年後か後の世界のようだ。
(自動手記人形と言う職業があったらしいと言う遠い存在ある事と、郵便事業が統合されて国有化されていたりする台詞より)
だからデイジーはヴィオレットの足跡を辿る事になる。終盤で切手にヴィオレットの姿が残り、住民もヴィオレットがしていた仕草を憶えていて残している。
その世界の歴史や人の記憶に残っている。その演出に痺れた。
彼女はヴィオレット・エヴァーガーデンの存在は永遠になっていたと言う事に。
〇登場人物アレコレ
個人的に良かったのはアイリスだろうか
テレビ編ではさっぱりした髪型でがっつくように仕事をしていた彼女だったが、髪を少し伸ばし、ショートカットに
そして今作では着る服も落ち着いた大人の格好をするようになった。
仕事も市長夫人のパーティーに出席して人脈作りと積極的、ヴィオレットの代わりにユリスの所へ来た時には電話機を用意するファインプレーと大活躍だ。個人的には一番輝いていたように思えるキャラクターだった。
ホッジンズはとくかく、お父さんであった。
ヴァイオレットが休日に何処へ行っているのだろうと心配になり、食事の仕方の変化をしみじみと思い出し、まさに父親である。
むしろ、ヴィオレットを見放さず社会人として育て上げたのがホッジンズだから父親みたいなものだと言えるだろう。
今作では気苦労が多いキャラクターと言える。
〇最後に
外国映画のような雰囲気、「静と暗」が多用される場面構成、Evan Call氏の音楽
この要素がじんわりと心に響く
テレビ編から見ていてこの作品はヴィオレットが長い旅で辿り着いた終着点と言う意味の作品に思えた。
だからこそ感動の余韻がこうして書いている時にも尾を引いている。
この感動を作り上げた京都アニメーションに賛美を送りたい。
よくあの悲劇を乗り越え、この作品を送り出してくれました。ありがとう。