戦う皇族軍人
(陸軍軍人の三笠宮祟仁親王)
皇族も前線で戦塵にまみれて戦った記録を挙げていく。
だが幕末の戊辰戦争では旧徳川幕府を追討する官軍または新政府軍の追討大将軍に仁和寺宮嘉彰親王が明治天皇から任命されるに始まり、大坂から江戸へ退がった徳川家追討の為に東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命された。
(有栖川熾仁親王)
明治時代初期は王政復古により皇族が公家諸法度によってできなかった政治への参加ができるようになった。政府や軍の要職に任命されるが政治家や軍人として能力が備わっている訳ではない。明治政府が近代国家への政務を始めると政治から皇族は離れたが軍人としての道は残した。
軍人の能力を持たせるべく欧米に皇族の子息を留学させる事から始まり皇族軍人が育成される。新たな時代の軍人となった皇族が戦場へ出たのは西南戦争の時からであった。
海軍では有栖川宮威仁親王が軍艦「高雄丸」で陸上への砲撃に参加している。
山階宮菊麿王は防護巡洋艦「吉野」と「高千穂」で分隊士を務め砲の指揮を執った。小松宮依仁親王は防護巡洋艦「浪速」で分隊士として威海衛封鎖作戦に参加した。陸軍では伏見宮貞愛親王が第4歩兵旅団長として遼東半島と台湾で指揮を執った。
だが傷を負う皇族軍人も居た。戦艦「三笠」に分隊長として乗り組んでいた伏見宮博恭王が黄海海戦で後部主砲を指揮していた時に敵弾が後部主砲塔に命中した。博恭王を含めた砲塔の全員が負傷する。この宮様の名誉の負傷は新聞で大きく報じられる。
陸軍では伏見宮貞愛親王が第一師団の師団長で南山攻防戦を指揮した。ロシア軍の固い防備に南山を攻める日本軍が4000人以上の死傷者を出す苦戦を強いられる戦場で貞愛親王は愛馬に乗り前線へ進み出た。その姿に将兵は励まされたと言う。西南戦争から戦場に幾度も出ていたからこそできる胆の据わった行動だ。
第二騎兵旅団は機関銃が装備されていた事もあり近衛予備混成旅団の防衛線を強化して戦線崩壊を食い止めた。
こうした戦う皇族軍人の登場は皇族を軍人と言う高い地位に置くと言うよりも欧米列強の王族が軍人として従事しているのを海外留学した皇族が目の当たりにした事もある。
しかし大正時代になると皇族の戦死を畏れ皇族軍人の出征は控えられた。だが日露戦争を戦った皇族軍人には政治を新たな戦場に戦うようになる。
戦艦「三笠」で危機一髪の経験をした伏見宮博恭王は政府が海軍軍縮条約の交渉に辺り東郷平八郎元帥と組み対米七割の比率を推す運動を行ったり載仁親王が陸軍参謀総長に就任すると海軍も陸軍との対抗で博恭王を海軍軍令部総長へ就任させた。両者は太平洋戦争開戦が近い昭和十五年までその職に在り続けた。
太平洋戦争開戦後になると皇族軍人は終戦工作に関わるようにもなるが本旨から逸れるので割愛する。
(伏見宮博恭王)
政争の一方で戦地に向かった皇族もあった。
こうした軍司令官のような後方で指揮する者ばかりでは無かった。皇族の身分を離れる臣籍降下をした方であるが伏見宮博恭王の四男で海軍軍人の伏見博英大尉は昭和十八年にセレベス島上空で乗っている輸送機が米軍機に撃墜され戦死した。
また同じく臣籍降下された朝香宮鳩彦王の次男である海軍軍人の音羽正彦大尉はマーシャル諸島クェゼリン島根拠地隊の参謀を務めていた。この音羽大尉を後方のトラック島へ異動させようとしたが鳩彦王は厚意に感謝しつつ「この際皇族として最前線に留まるべきだ」と異動の提案を断った。クェゼリンは米軍と激闘の末に昭和十八年二月六日に玉砕し音羽大尉も戦死した。
皇族の血を引く者で戦闘により戦死したのはこの二人である。